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土方巽 そのⅠ <禁色>まで

舞踏家土方巽をかんたんに紹介するのはむずかしい。

「舞踏」という身体表現に関わる新たな概念を提示し、「舞踏」という新しいダンスのジャンルを創造し、「舞踏」という新たなダンス表現のスタイルとメソッドを構築した土方巽。

土方巽をめぐるクロノロジーをたどりつつ、土方巽とは、そして舞踏とは、をさぐってみよう。

1928年(昭和3)秋田に生まれた土方巽(本名・米山九日生)は、高校卒業後、市内にあった増村克子*のダンス研究所でドイツ系のダンス、ノイエタンツを学ぶ。ダンサーとしてのスタートである。

子どもの頃から度を超した悪戯好きで、ラグビーの名門、現在の県立秋田工業高校在学中にはラグビー部にも所属していた硬派の男が、なぜ、外国のダンスをとなるが、土方によれば、「ドイツのダンスだから硬い」ということであった。

しかし、翌年1947年(昭和22)には19歳で初めて上京。上京にあたって、はっきりとした目処なり確りとした仕事があったわけではなかった。高輪のお寺の屋根裏に下宿するが、ここで、後に画家になる田中岑*に出会い、さまざまな芸術家に紹介される。

お寺から通りに出ると、すぐ目の前が高松宮邸である。その後、日本のダンス界に身をおく土方にとって、高松宮賞は権威の象徴として無視できない栄誉の証であった。

焼け跡の東京の青空を目に焼き付け、芸術家になる野望を膨らませるものの、仕事も日雇いでしかなく学生でもない青年の青雲は、戦後間もない貧しい日本の現実を前にして伸びやかではなかった。

土方は限られた外食券を手に、東京と秋田を行き来することを余儀なくさせられる。次に上京した時に見た大野一雄*の踊り(≪第一回大野一雄舞踊公演≫)に衝撃を受ける。その頃か、増村克子の師でもあり、大野一雄の師でもある江口隆哉の舞台に出演したと思われる。土方がモダンダンサーとしてダンス界の末端に位置し始めたのである。

ついで上京した折は、古川沿いに連なってあった木賃宿のひとつが住まいになったことが確認される。この木賃宿で同宿したのが小島政治*である。軽演劇の芸人を志望していた小島とダンサー志望の土方とは、蚕棚のようなベッドが並ぶ木賃宿の広い室内で互いに目をつけた。

ついで、意気投合した二人は、日々の食べることから人間を見る目をきたえることなどを語り、そして有栖川宮公園で踊ったという。しかし、木賃宿に住む身の不遇、実家の没落など、二十代半ばに至る土方の苦しい現実は隠しようもない。

1952年(昭和27)25歳の時に、安藤三子舞踊研究所に入る。大野一雄を出演した≪安藤三子ダンシング・ヒールズ≫の公演で舞台に立つ。また、安藤*の振付で、テレビのダンスショーにも出演する。ジャズダンスに熱を入れる日々になる。ドイツからアメリカへの転向である。

この頃の土方は、もの静かなたたずまいと暗い表情でジェームス・ディーンを気取っていた。出入りし始めたのが、「赤坂梁山泊」と呼ばれる赤坂にあったアパートで、ここに河原温*や金森馨*が住んでいた。ここでは、池田龍雄*、奈良原一高*らとも出会うことになる。

一方、上野・池之端の黒木不具人*の家にも出入りし、小原庄助*や篠原有司男*らとも交友していた。こうしてこの頃、後に前衛美術家として活躍する美術家たちとの交流をさかんにしたわけである。

一方、安藤の研究所は≪安藤三子・堀内完ユニーク・バレエ・グループ公演≫を行うようになる。その公演では、土方もソロで踊り、図師明子と共作・共演も行っている。しかし、クラッシックバレエを主にした舞台へと変わり、土方がついてゆくのはむずかしくなってゆく。

そして、この年、1957年(昭和32)には、安藤の元を離れるとともに、武智鉄二*の作・演出による<ミュージックコンクレート・娘道成寺>に出演する。古典と前衛の融合といえる舞台に呼ばれた土方だが、「暗黒舞踏」のオリジンをここに見出すこともできよう。

さらにこの年、土方ジュネを名乗る。ジャン・ジュネに傾倒し始めたのである。アメリカからヨーロッパ(フランス)に関心が移ってゆく。

翌年、土方は今井重幸*の現代舞台芸術協会のスタジオに転がり込む。安藤の研究所で知り合ったヨネヤマ・ママコ*を追ってのことである。ママコは土方よりもずっと年少だったが、将来を嘱望された、いわば才色兼備のダンサーだった。阿佐ヶ谷のスタジオ(現・アルスノーヴァ)を与えられていた。

この年開催された≪劇団人間座・現代舞台芸術協会提携公演≫に、土方は今井の振付助手を務め、作舞し、また今井の演出でママコや大野一雄と共演した。この公演に際して、今井の提案で芸名として「土方巽」を名乗ることになる。

その翌年が、舞踏の始まりとされる<禁色>初演の年となる。土方が初めてアスベスト館(当時は津田信敏近代舞踊学校)を訪れた年でもある。アスベスト館なくしては舞踏もまた、なかった。津田信敏*と出会い、若松美黄*と出会い、そして元藤燁子*と出会う。人と場と作品がそろって、ついにダンサー土方巽が舞踏家土方巽となるマトリックスが現れた。