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谷口吉郎とイサム・ノグチ 慶應義塾の近代建築とモダン・アート Ⅱ

ラジオNIKKEI(旧ラジオたんぱ) 慶應義塾の時間

三田キャンパス戦後復興計画と新萬來舎の構想

柳井康弘

本講座は、「谷口吉郎とイサム・ノグチ―慶應義塾の近代建築とモダン・アート」と題し、三回にわたって谷口とノグチによるコラボレーションの意味を、作品に即して具体的に検討してゆくものである。初回の文学部美学美術史学専攻・前田富士男教授からバトン・タッチし、今回からはアート・センター・キュレーター(学芸員)の柳井が担当する。一九五〇年から一九五二年にかけて谷口吉郎とイサム・ノグチ(図1【2―1】)のコラボレーション(協同)により実現した「第二研究室」の談話室「新萬來舎」(図2【2―2】)について具体的に見ていくことにしたい。

2-1. イサム・ノグチと谷口吉郎(三越百貨店における個展会場にて)1950年 撮影:渡邊義雄

2-1 イサム・ノグチと谷口吉郎(三越百貨店における個展会場にて)1950年 撮影:渡邊義雄

2-2 イサム・ノグチ〈新萬來舎(ノグチ・ルーム)〉1951年 慶應義塾大学三田キャンパス 撮影:平剛

2-2 イサム・ノグチ〈新萬來舎(ノグチ・ルーム)〉1951年 慶應義塾大学三田キャンパス 撮影:平剛

今回の講座については新しい試みとして、慶應義塾大学アート・センターのホームページ内にこの講座のホームページを作成した。本文中の【】内の図版番号はホームページ該当箇所の図版に対応しているので、参照していただきたい。むろん、パソコンを使用されない方もいるだろうから、参考程度だが、活用して頂ければ幸いである。この講座のホームページは、慶應義塾のホームページから「研究所等」↓「アート・センター」↓「イベント・スケジュール」と進み、最上段の二〇〇四年一月の本講座名をクリックしてご覧いただきたい( URL は、http://www.art-c.keio.ac.jp/isamunoguchi_archive/)。

三田キャンパスの戦後復興計画

慶應義塾大学の建築および施設は、第二次世界大戦によって大きな被害を蒙った。とくに三田キャンパスでは、一九四五(昭和二十)年五月二十四日から二十六日にかけて続いた空襲により、木造校舎のほとんどが焼失し、図書館も焼夷弾を被弾するなど大きなダメージを受けた。一九一二(明治四十五)年四月に竣工した赤レンガの慶應義塾図書館(現在の大学図書館旧館)は、ネオ・ゴシック様式のハイカラな建築物として義塾関係者はもとより塾外の人々にまで慶應義塾、そして三田キャンパスを象徴する建物として長い間親しまれてきた。しかし図書館は、五月二十五日深夜の爆撃により、屋根裏および八角塔の部分から出火し、火は本館の内部ほとんどに燃え広がり、さいわい全焼は免れたが、屋根が抜け落ちるほどの大きな被害を蒙った(図3【2―3】)。一九四五(昭和二十)年八月十五日、太平洋戦争は終戦をむかえたが、戦後しばらくの間キャンパスは焼け跡にわずかに残る建物、破れた窓に板を貼り付けた状態の薄暗い教室、そこに軍服や国民服姿の学生たちが二人掛けのイスに三〜四人で詰めて座らなければならないという有様で、大学として早急に対策を講じなければならない問題が山積みしている状況であった (*1)。

2-3 第二次世界大戦により被害を受けた慶應義塾図書館 写真提供:福澤研究センター

2-3 第二次世界大戦により被害を受けた慶應義塾図書館 写真提供:福澤研究センター

戦後の混乱が続く中、慶應義塾は一九四七(昭和二十二)年の創立九十年を契機として復興にむけて歩みだした。三田地区では、まず大学の中心的機能である図書館の本格的修復を行うことが決定され工事に着手。その結果、一九四九(昭和二十四)年五月五日に落成式が挙行され図書の閲覧業務も再開された。また昭和二十四年度から新制大学が発足することになったことをうけ、校舎および教室の復興が次の課題となった。三田地区の大学校舎は、一九二〇(大正九)年に大学予科校舎として建てられた「鉄筋校舎」と、一九三七(昭和十二)年に竣工した「大学学部校舎」の二つの校舎が戦災を免れ残っているだけであった。そのため塾当局は一九四八(昭和二十三)年九月、キャンパス東南部に「五号館」を、同年十二月キャンパス北西部に「四号館」を新築することを決定し、五号館は一九四九(昭和二十四)年一月、四号館は同年五月に竣工した。ちなみに五号館は現在の図書館新館の位置、四号館は現在新研究室棟の建っている場所の西側半分にあたる位置に建設された。先に言及した図書館落成式は、この二つの新校舎の落成式も兼ねていた(*2)。

谷口吉郎と慶應義塾

五号館と四号館は、当時の塾長潮田江次から慶應義塾の建築・施設の再建・修復に関して相談と委託を受けていた建築家・谷口吉郎(一九〇四―一九七九)が設計を担当することとなった。谷口は一九〇四(明治三十七)年、石川県金沢市に生まれ、地元の第四高等学校を経て、昭和三年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業した。谷口と慶應義塾の関係は、一九三二(昭和七)年頃から始まり、すでに戦前の「幼稚舎校舎」(一九三七)、「大学予科日吉寄宿舎」(一九三八)などの設計を手がけていた(*3)。

一九三八(昭和十三)年、三十四歳の谷口は外務省嘱託としてドイツのベルリンに渡り、そこでカール・フリードリッヒ・シンケル(一七八一―一八四一)の建築に出会い大きな影響を受ける。シンケルは十九世紀ドイツを代表する建築家で、新古典主義の作品で知られる。谷口は後にベルリンでの体験を『雪あかり日記』という紀行文にまとめているが、このテキストの中で谷口はシンケルの新古典主義的作品を高く評価すると同時に、その源泉にある古代ギリシャ建築に対して大きな賛美を寄せている。例えば、「フンボルトの旧邸」と題する一文には、こんなくだりがある。

この邸宅をシンケルが設計したのは一八二二―一八二四年の由で、古い建物を改造したものである。(中略)この建築の外観にしても、ギリシャ的な様式をことさらに模倣しようとしていない。それにもかかわらず、かえって古典主義建築の本質をよくつかんでいる。つまり、厳格なギリシャ神殿の模倣よりも、こうした壁と窓だけの簡素な構成にも、ギリシャ精神が湧きでてくるのは、この建築の構造性によるものか、あるいは、その壁面の比例的な分割による形式性に基づくものか、その点に関しては、私としても十分に吟味しなければならない問題だったが、とにかくシンケルの眼と腕には、ギリシャの古典的本質が、よく理解されていて、そのためにこんな小品にもその特性が表現されるのだろう。(*4

こうした古代ギリシャ建築への賛美と古典主義的傾向は、後に谷口が手がける建築作品に大きな影響を与えている。とりわけ谷口の縦長プロポーションへの嗜好は、三田キャンパスの復興建築においてくりかえし現れることになる。

谷口は東京工業大学教授として教育・研究に従事するかたわら、「島崎藤村記念堂」(一九四七)、「東宮御所」(一九六〇)、「東京国立博物館東洋館」(一九六八)、「東京国立近代美術館」(一九六九)など数々の作品を残しており、我が国のモダニズム建築を代表する建築家として知られる。また明治時代の建築を移築・保存するための施設として一九六五(昭和四十)年、愛知県犬山市に「博物館・明治村」を開設し、その初代村長に就任するなど、わが国の建築物文化財保護の分野でも大きな足跡を残している。

四号館と学生ホールの建設

谷口の設計により一九四九(昭和二十四)年五月に竣工した四号館(図4【2―4】)は、ホール一室と五十名単位の教室十三室からなる木造二階建ての建物で、キャンパスの北西部に建設された。東西にのびる横長の外壁に素焼き赤レンガの三角屋根を組み合わせたシンプルな形状の建物で、その壁面には縦長長方形の窓が整然と配置されている。この垂直方向を志向する長方形の窓のプロポーションは、谷口が三田山上の復興建築において一貫して用いたデザインであり、この時期の谷口建築の特徴を示す重要なモティーフといえる。

2-4 谷口吉郎〈慶應義塾大学四号館(第三校舎)〉外観 1949(昭和24)年 撮影:平山忠治

2-4 谷口吉郎〈慶應義塾大学四号館(第三校舎)〉外観 1949(昭和24)年 撮影:平山忠治

谷口は四号館において、建物のみならず、周囲の空間にも創意をこらした。すなわち校舎の正面に当たる南側に芝生と小砂利を組み合わせた庭園を設け、その中央に等身大のブロンズ青年像(図5【2―5】)を設置したのである。このブロンズ彫刻は、東京美術学校教授の菊池一雄(一九〇八―一九八五)が新制作協会展に出品し昭和二十四年度の毎日美術賞を受賞した作品で、戦後彫刻の成果として高い評価を受けたものであった。谷口はこの秀作に着目し、四号館の庭園に設置することを強く提案し、昭和二十四年五月坂本直樹氏から彫刻の寄贈を待って四号館の建築空間は完成をみた。

2-5 菊地一雄 〈立像青年〉1949(昭和24)年 ブロンズ

同時期谷口は、四号館の西側に新築された「学生ホール」(図6【2―6】)の設計もあわせて依嘱された。学生ホールの建設された場所は現在の西校舎北側にあたる部分で、食堂や売店、学生の課外活動のための部屋などを備えた施設として一九四九(昭和二十四)年三月に建設が決定され、同年十一月に竣工している。学生ホールは、新しい時代の学生たちの未来にむけて塾当局や学生の希望、また京都・九州三田会など塾員の経済的支援があいまって実現したものであった。この学生ホールも外装は赤い屋根にテラス付きの白亜の壁で、やはり谷口建築の特徴を示す縦長長方形の窓が整然と配置された建築プロポーションが踏襲されている(図7【2―7】)。また内部空間も一階中央の吹き抜け部分と二階に設けられたギャラリーを食堂とし、その東西の壁には新制作協会の洋画家・猪熊弦一郎(一九〇二―一九九三)の壁画《デモクラシー》を飾るという、若々しく自由な構想であった(図8【2―8】)。

2-6 〈学生ホール〉と〈四号館〉右手前は菊池一雄〈立像青年〉 撮影:平山忠治

2-6 〈学生ホール〉と〈四号館〉右手前は菊池一雄〈立像青年〉 撮影:平山忠治

2-7 《学生ホール》〈左手前〉と〈四号館〉 撮影:平山忠治

2-8〈学生ホール〉室内(学生食堂)と猪熊弦一郎の壁画〈デモクラシー〉撮影:平山忠治

2-8〈学生ホール〉室内(学生食堂)と猪熊弦一郎の壁画〈デモクラシー〉撮影:平山忠治

一九四九(昭和二十四)年十二月十日、学生ホールの完成を祝して盛大な落成式が行われたが、この式典において建物の設計者として挨拶に立った谷口吉郎は塾長はじめ義塾関係者を前にこんな話をしている。

この建物の特色は周囲のどこからでも自由に出入りができることで、演説館にかたどって福澤精神を表現することにつとめた(*5)。

また別のテキストでは、谷口はこう記している。

私は、明治八年(一八七五年)に福澤諭吉先生が建てられた「演説館」のスタイルを、私の設計のテーマとして、それによって、三田の丘に「造型交響曲」を夢想している(後略)(*6

このように谷口は「建築家として、敗戦の学園に、美意識の芽生え」(*7)をはぐくもうと、三田キャンパス復興建築計画において福澤諭吉の精神が宿る演説館の意匠を強く意識し建物の設計を行うとともに、四号館正面に菊池一雄の《青年像》を、学生ホールには猪熊弦一郎の壁画《デモクラシー》を設置し、三田山上に建築・造型の「交響曲」を奏でるという大胆な実験を試みたのである。図6【2―6】は四号館の東側からキャンパス西側、つまり学生ホールの方を見渡した写真であるが、右側手前には四号館と菊池の青年像、そして左手正面には学生ホールが写っており、二つの建物の調和した雰囲気や呼応関係がよく見てとれる。学園内に裸体の彫刻像を設置することは当時としては前例のない試みであったが、その 剌とした姿は四号館、学生ホールと見事に調和し、戦後日本の新しい時代の機運に満ちた雰囲気が具体化されている。四号館と学生ホールは、当時の建築界でも高い評価を受け、この二つの作品によって谷口は昭和二十四年度の建築学会賞を受賞した。

なお四号館と学生ホールは、いずれも木造建築であったため、その後のキャンパス建て替え計画にともない解体され、今は現存しない。ただし菊池一雄の《青年像》は四号館解体の際キャンパス北西部隅に移設され展示されていたが、大谷石製台座が脆弱化し倒壊の危険が認められたため、数年前に撤去し現在は学内の倉庫に保管中である。また猪熊弦一郎の壁画《デモクラシー》は、西校舎生協食堂の壁面に移設され現在も多くの塾生に親しまれている。

「新しい萬來舎」の構想

昭和二十四年度の建築学会賞を受賞した四号館と学生ホールを三田山上に実現した谷口は、翌昭和二十五年の段階において、アカデメイアとしてはささやかな場ながらも三田山上というロクス(場所)のもつ物語を想起しつつ、同時に新しい時代に歩みだそうとする 剌とした時間の弾みを、さらにもう一つの建築空間によって具体化しようとしていた。それが「第二研究室」(図9【2―9】)である。

2-9 谷口吉郎〈第二研究室〉外観 1951(昭和26)年 撮影:平剛

2-9 谷口吉郎〈第二研究室〉外観 1951(昭和26)年 撮影:平剛

三田地区の研究室は、一九四九(昭和二十四)年の四号館、五号館校舎の落成後、新制大学の設置基準からも研究室の整備が緊急の課題となり、まず一九二〇(大正九)年に建てられた「鉄筋校舎」を改修して「第一研究室」とすることとし、一九五一(昭和二十六)年五月工事が完了した。あわせてキャンパス西南部の稲荷山に建つ演説館の北側に隣接する場所に新しい研究室「第二研究室」を建築することも決定され、同じく谷口吉郎の設計により一九五一(昭和二十六)年一月に着工、同年八月に建物は竣工した 。(*8

第二研究室は塾の戦後復興建築としては最初の鉄筋コンクリート造で、二階建ての内部に教授のための研究個室、事務室などとともに、一階玄関部南側に談話室として小さなホールを備えていた。第二研究室の設計に関して、谷口 は以下のように語っている。

新しい研究室が建つ場所は、明治の初年、福澤諭吉がそこに「萬來舎」を開設した跡だった。それは名称のごとく千客萬来、来る者はこばまず、去る者は追わず、今の言葉で言えば、広く識見を求めようとする対話の場所であった。それが戦災で壊滅したのである。だから新しく建てられる「新萬來舎」は福澤精神の新しい継承を必要とする。従って建築もそれに応じて開国的な新しい意匠でいいはずだと、私は考えた。(*9

ここで「萬來舎」という名称が出てきたので、これについて少し説明しておこう。萬來舎が塾内に設けられたのは、一八七六(明治九)年十一月にさかのぼる。前年の一八七五(明治八)年五月には福澤諭吉によって日本初の演説のための施設「演説館」が建設された。その演説館の南側に隣接して設けられた木造平屋の建物、それが「萬來舎」であった。

図10【2―10】は一八七七(明治十)年に作られた三田山上の建物配置を示した絵図(慶應義塾図書館貴重室所蔵)であるが、方角は絵図左上の方位図に示されているように画面右側が北、画面上が西となっている。この絵図を見ると画面中央のやや右のあたりに「演説館」と書かれた建物が見える。右下隅に「門」があるが、これが現在の「東門」いわゆる「幻の門」にあたるので、そこから左へ坂を上ったあたり、現在の塾監局の北側あたりに当初の演説館は建っていたのである。そしてそのすぐ左側(南側)に「萬來社」という文字が記されている。

2-10〈明治10年三田山上絵図〉慶應義塾図書館貴重書室蔵

2-10〈明治10年三田山上絵図〉慶應義塾図書館貴重書室蔵

『慶應義塾百年史』によれば、萬來舎は二十畳くらいの広間と八畳くらいの小部屋との二間からなり、廊下で演説館の控室に連絡していたという。またその名称も、よく旅館の玄関などに飾られている「千客万来」という額縁の俗語からとられたと伝えられている。萬來舎は教職員、塾生、卒業生はもちろんそれ以外のすべての人々に開放された一種の社交クラブとしての機能をもっていた。こうした集会所・社交クラブの必要性を早くから認識していた福澤は、暇があればよく萬來舎へきて来客と談話した、と伝えられている(*10)。

福澤諭吉が日本の近代化において重視した概念の一つに「交際」という言葉がある。これは英語の「ソサエティー 」という言葉を翻訳したもので、「ソサエティー」というと今日では「社会」と訳すのが普通であるが、福澤は「ソサエティー」という言葉をあえて「交際」、あるいは「人間交際」と訳した。つまり福澤にとって「社会」すなわち「ソサエティー」とは、「人と人とが交際する」ことであった(*11)。そして当然のことながら、「交際」するには、そのための「場所」が必要になってくる。福澤は「演説」という「人と人との『声』による交際」のために「演説館」を建てた。そして「人と人とが集まり、自由に意見を交際」させるための場所として「萬來舎」を「演説館」に隣接させて建てたのである。福澤は同じ趣旨から一八八〇(明治十三)年、銀座に日本最初の社交クラブ「交詢社」を設立するが、萬來舎はその前身のような存在であったといえる(*12)。このように、福澤諭吉が日本の近代化において重視した「交際」という概念を具体化した二つの空間が、明治初年の三田山上に隣接して設けられたのである。この点で演説館と萬來舎は、ペアで慶應義塾の歴史にとって非常に重要な意味をもった場所であり、空間であると考えられる。

演説館は一九二四(大正十三)年、現在の場所である稲荷山に移築され、萬來舎の建物も一八八七(明治二十)年頃改築のため解体されてしまった。しかし「萬來舎」の名称は塾内に設けられた教職員クラブに引き継がれ、場所は転々としたが第二次世界大戦中には三田キャンパス西側の大講堂と稲荷山の間に設置されていた。しかしそれは木造建築物であったため、戦時中空襲による被害を避けるためあらかじめ解体され、その部材も昭和二十年五月の空襲で焼失してしまった。谷口吉郎が設計を委嘱された第二研究室は、その萬來舎の跡地に建てられることになったのである。

こうして、本来は教授室を連ねた研究室棟の中の一談話室でしかないはずの空間が、谷口にとって大きな意味をもちはじめていた。第二研究室の談話室、すなわち「新しい萬來舎」の構想について谷口が思いをめぐらしていた一九五〇(昭和二十五)年五月、この計画を実現に導く人物がたまたまアメリカから来日する。彫刻家イサム・ノグチである。

イサム・ノグチと野口米次郎

イサム・ノグチ(一九〇四―一九八八)は、詩人で慶應義塾大学英文科教授であった野口米次郎【2―11】とアメリカ人作家レオニー・ギルモア【2―12】との間に、一九〇四年十一月十七日アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれた。一九〇六年、二歳のノグチは、すでに帰国していた父・米次郎を追って母レオニーとともに来日するが、米次郎はすでに別の女性と結婚していたために、母とともに東京、ついで茅ヶ崎に住み、日本で少年時代を送った(*13) 。

2-11 野口米次郎(ヨネ・ノグチ)

2-11 野口米次郎(ヨネ・ノグチ) The Isamu Noguchi Museum HPより

2-12 母・レオニー・ギルモア

2-12 母・レオニー・ギルモア The Isamu Noguchi Museum HPより

小学校を終了すると、母レオニーはノグチにアメリカで教育を受けさせることを決心し、一九一八年ノグチは単身でアメリカに移住し、一九二三年アメリカの高校を卒業後、医学を学ぶためコロンビア大学に進学した。しかしこの頃同時にニューヨークのレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間部で彫刻を学びはじめ、その後、国民彫刻協会の会員に選出され彫刻家として第一歩を踏み出すことになる。この頃ノグチは母親の姓である「ギルモア」を名乗っていたのだが、彫刻家として世に出ようとしたときあえて自分の名前を改め、「おそらくは継承する権利のない 」(*14)である「ノグチ」を名乗ることを決心した。

日本への思い

一九二六年、二十一歳のノグチは、フランスで彫刻の修行をするため、グッゲンハイム奨学金に応募した。その申請書には、一年目はパリで彫刻の技術を修得し、残りの二年はアジアで過ごしたいという計画が企画された。この申請書においてノグチは、西洋では詩人「ヨネ・ノグチ」として知られる父・野口米次郎と、父の母国である日本に愛着をこめて、次のように記している。

私が制作活動のための場所として東洋を選んだのは、私が半生を過ごした東洋に大いなる愛着を感じているからです。私の父ヨネ・ノグチは、日本人であり、詩を通じて、西洋に対して東洋を理解せしめた人物として早くから知られています。私はこれと同じ仕事を、彫刻によって行いたいので 。(*15

この計画によってグッゲンハイム奨学金を獲得したノグチは一九二七年パリに渡るが、そこで彫刻家コンスタンティン・ブランクーシ(一八七六―一九五七)の虜になってしまう【2―13】。彼は当初の計画に反し二年間パリのブランクーシの下で彫刻の修行を続けたため、三年目の奨学金を打ち切られ、日本への旅行を果たすことはできなかった。

3-6 イサム・ノグチ:ブランクーシのアトリエにて 1928年頃

3-6 イサム・ノグチ:ブランクーシのアトリエにて 1928年頃 The Isamu Noguchi Museum HPより

ニューヨークへ戻ったノグチが、再び日本への旅行を計画するのは、一九三〇年のことである。その前年一九二九年にノグチはニューヨークで初の個展を開き、肖像彫刻を作ることによって旅行の資金を工面し、再びパリを経てシベリア鉄道で日本に向かうことになる。しかしこの時、出発前に父・米次郎からショッキングな手紙を受け取った。父の手紙には「ノグチの姓を名乗って日本に来てはいけない」という内容が書かれていたのである。そのためノグチは八ヵ月間中国の北京にとどまって水墨画を学ぶなどしたが、準備した資金も乏しくなり、やむをえず日本への訪問を決意する。

一九三一年初め日本へ到着し父との再会を果たしたノグチは、父から高村光雲・光太郎親子を紹介され、また京都を訪れ寺院や日本の古美術に触れるなどして過ごしたが、父との関係は最後まで修復されることはなかった。この時の父との関係についてノグチは「長い沈黙の会話を交わすのが常」であり「葛藤する感情をどうしようもなかった」(*16)と後に述懐している。

一九三一(昭和六)年九月、満州事変が起こり、ノグチはアメリカへの帰国を余儀なくされる。やがて日本は戦争への道を突き進み、一九四一(昭和十六)年八月、真珠湾攻撃を契機に日本とアメリカは開戦し敵対関係となった。戦時中アメリカ各地では日本人排斥運動が起こり、ノグチも一時期収容所での生活を経験している。日系アメリカ人であるノグチにとって太平洋戦争は、父との不幸な関係に加え、もう一つの暗い宿命に直面する時期だったのである。

三たび日本へ

第二次世界大戦が終わって間もなく、ノグチは再び世界一周旅行を計画する。一九四九年「レジャー、余暇の環境の、その意味、用途、社会との関係」について研究するためボーリンゲン基金の奨学金を得たノグチは、アメリカからヨーロッパへ渡り、イタリア、ギリシャ、そしてさらに東へ向かい、中東、インド、東南アジアの各地を経て、一九五〇(昭和二十五)年五月二日、この旅行の最終目的地である日本に到着した(*17)。

この時、父・米次郎はすでに亡く、ノグチはその遺族と対面し、日本ではじめて心からの開放感を味わった。一方、戦争が終わり新しい自由な時代が訪れた戦後日本の美術界において、ノグチはアメリカ合衆国の生んだ新進気鋭の芸術家であり、しかも日本と特別な「絆」をもつ人物として大いに歓迎された。こうして一九五〇(昭和二十五年五月二日、多くの日本の若き芸術家や建築家たちが、ノグチの来日を大きな友情をもって迎えたのである。この時の心境について、ノグチはこう述懐している。

じつに戦争は私自身と日本の人々との関係を、びっくり仰天するほどに改善していた。以前には感じられた或る種の隔たりが、いまやあけっぴろげの友情にかわってしまった。じっさい一九五〇年の春の日本におけるほど、あらゆる人々の間に心からの善意が表明されていたのは、未だかつてどこにも見たことがない(*18)。

日本に到着したノグチは、さっそく六月には京都へ旅行し、竜安寺石庭をはじめ、桂離宮、詩仙堂といった寺社仏閣・名所旧跡を訪れ、日本の伝統や日本美術の真髄に触れた。とくにこの時、禅宗文化を具現した日本庭園の数々をノグチが体験したことは、のちに彼が手がける庭園作品のデザインに大きな影響を与えたと考えられる。東京に戻るとすぐ、三越百貨店本店において「イサム・ノグチ作品展」の開催が決定した。この三越百貨店での個展は、当初ノグチの作品を写真で紹介する写真展として企画されたが、ノグチ自身の提案で「眼の前にあって、手に触れることができるような」実際の作品を並べる作品展となった(*19)。

一方、京都から戻って間もなく、ノグチは亡父・野口米次郎がかつて教授を務めた慶應義塾大学を訪れ、塾長潮田江次から建築家・谷口吉郎を紹介される(*20)。それは、戦災で大きな痛手をうけたキャンパスの再建を委託されていた谷口吉郎が、三田山上に第二研究室の設計を構想していた、まさにその時期だったのである。

谷口吉郎との出会い

谷口が雑誌『新建築』一九五〇年十月号に寄せた「彫刻と建築」と題する文章は、この年の初夏、谷口がノグチと共に三田山上を訪れた時の、こんな印象的なシーンから書き始められている。

三田の丘へ、私はイサム・ノグチ氏とのぼった。品川湾の海を見おろす丘の上には、慶應義塾の校舎が建っている。夏の空は晴れ、白い雲の峯が美しい。イサム氏は「アクロポリスだ」と叫んだ(*21)。

ここでノグチが叫んだ「アクロポリス」というのは、周知のように古代ギリシャ人がパルテノン神殿を築き、かのギリシャ文明を生み出した丘の名称である。ノグチは、谷口の復興建築が立ち並ぶキャンパスを一目見て、三田の丘を古代ギリシャのアクロポリスの丘、すなわち建築と彫刻の美が調和した象徴的空間に見立てたのであった。谷口がベルリンにおいてシンケルの新古典主義建築に出会い、その源にある古代ギリシャ建築に大きな賛美をおくっていることは上述したとおりであるが、この時ノグチが三田キャンパスの復興建築群を見て即座に「アクロポリス」に喩えたことは、ノグチが谷口の建築美学の本質を看破し理解したことにほかならず、この言葉は谷口にとっても最高の賛辞であったといえる。こうして谷口とノグチは、初対面より深い友情と信頼関係で結ばれることとなった。

谷口の求めに応じてノグチは第二研究室の談話室、すなわち「新しい萬來舎」のデザインを担当することを快諾した。一方ノグチにとっても、この仕事を引き受けることは、同時に彼の父親と和解することを意味した。ノグチは、自伝においてこう述懐している。

父が四十年間教えていた慶應大学のために、何かをつくるようにとの提案があった。この仕事を父と人々への和解の行為だと思い、私は一途に打ちこんだ(*22) 。

こうして「新しい萬來舎」(=第二研究室)の建設計画ノグチも参加することとなり、ノグチは庭園とそこに置かれる彫刻を担当し、談話室については谷口とノグチが共同で制作にあたることとなった(*23)。奇しくも同じ一九〇四年生まれの日本人建築家とアメリカ人彫刻家は、戦後間もなくの慶應義塾大学三田キャンパスで出会い、「新萬來舎」という戦後最初の空間芸術における日米共同プロジェクトを担当することになったのである。

工芸指導所におけるイサム・ノグチ

谷口とノグチは、おそらく一九五〇(昭和二十五)年七月に新萬來舎のデザインについて意見交換を重ね、二人は制作に集中したと思われる。なぜなら翌八月十八日―三十日に開催された三越百貨店の「イサム・ノグチ作品展」(毎日新聞社主催)に、早くも「新萬来舎」の平面図と建築模型、彫刻作品のモデルや談話室のための家具が出品されているからである(図11【2―14】・図12【2―15】)。

2-14 三越百貨店におけるイサム・ノグチ作品展 1950年8月

2-14 三越百貨店におけるイサム・ノグチ作品展 1950年8月 The Isamu Noguchi Museum HPより

2-15 イサム・ノグチ作品展に出品された新萬來舎の建築模型

2-15 イサム・ノグチ作品展に出品された新萬來舎の建築模型

この時ノグチのために制作の場所と材料を提供したのが、当時津田山にあった「工芸指導所」である。工芸指導所は日本の工業デザイン振興を目的として一九二八(昭和三)年仙台に設立された商工省の研究機関で、後に一九四〇(昭和十五)年東京に移転した。工芸指導所には戦前からブルーノ・タウト(一九三四)やシャルロット・ペリアン(一九四〇)が招聘され、日本固有の材料を使って海外に輸出するための工芸品を生産するためのさまざまな研究や試作品の制作が行われていた。この工芸指導所で当時指導的な役割を果たしていたのが、日本を代表するインテリア・デザイナー剣持勇(一九一二―一九七一)であった(*24)。

ノグチを剣持に紹介したのは、ノグチの歓迎会を開いた新制作協会の洋画家・猪熊弦一郎であったが、剣持自身も六月二十日に国立博物館で開かれたノグチの「モダンライフと室内の傾向」と題する講演を聞き、彫刻家でありながらすでにハーマン・ミラー社の工業デザイナーとして製品企画を実現しアメリカで高い評価を受けていた同じ名前を持つアーティストに大きな関心を寄せていた。丹下健三研究室におけるノグチとの出会いについて、剣持は以下のように語っている。

イサム・ノグチに私が初めて会ったのは、梅雨の六月二十四日、東大の建築学科の丹下助教授の部屋であった。グレイのレインコートに、痩型の身をつつんだ彼は、青目がかったクリクリした眼差しで静かに「コンニチワ」と云った。この人が、ひとたび仕事にとりかかると「仕事の虫」と云うか「藝術の鬼」と云うか、ともかく何とも形容出来ない人間でない人間に一変してしまうとは、全く予想することが出来なかった。(*25
七月二十八日ノグチは、弟の野口ミチオ、猪熊弦一郎夫妻らと共に工芸指導所を初めて訪れた。この時、指導所のモデルルームに展示されていた指導所の制作物の一つに目をとめノグチはこう言った。 美しいですね。こんなよい感じのものがあるのに、どうして日本の人は外国を真似るのでしょう。アメリカの建築家やデザイナーが懸命に日本から何かを掴もうとしているのに。(中略)ここは非常に良いところです。僕はここで仕事がしたくなりました。(*26

こうしてノグチは「青い丸首シャツに青パンツ、片手に七つ道具の入った革製の工具袋をぶらさげ、片手にスケッチブックを携えた」(*27)といういでたちで、八月一日から工芸指導所において集中的に制作活動を行うこととなる。わずか二週間という短期間にもかかわらずノグチは、彫刻二点、家具三点、塔のモデル二点、焼物のハニワ、つぼ、掛け額など小品数十点にのぼる作品を仕上げ(*28) 、それらが三越百貨店のイサム・ノグチ作品展に出品されたのである。(以下、次号に続く)

時代の新しいコミュニケーションを空間化しようとしていた建築家・谷口吉郎と、かつてない能動的な気運にみたされていた彫刻家・イサム・ノグチとの三田山上における出会い、そしてコラボレーションは、二十世紀の世界美術史にてらしてみても、モダニズムのアート・シーンでの特筆に値する出来事であったといえる。しかし残念ながら第二研究室および新萬來舎は、新校舎建設のため二〇〇二年春に解体が決定され、現在工事が進行中である。新萬來舎部分は新校舎の竣工にあわせて、三階部分に移設され復元される予定であるが、私たちは純粋な意味でのそのオリジナル空間を体験することができなくなってしまった。

アート・センターのHPでは、解体前の新萬來舎の室内と庭園を三六〇度パノラマで撮影し編集したムービー画像ファイルを公開している。ムービー画像を閲覧するには、アップル社の「クイックタイム」というソフトをインストールする必要があるが、ホームページから無料でダウンロードできるので、ウェブサイトを閲覧可能な方はぜひこの空間を体験していただきたい。

  • (1)慶應義塾の戦災被害については、『慶應義塾百年史』中巻(後)、一九六四、八九三頁以下を参照。
  • (2)戦後の諸施設復興については、『慶應義塾百年史』下巻、一九六八、二四三頁以下を参照。
  • (3)谷口吉郎の経歴および作品については、『谷口吉郎作品集』、淡交社、一九八一を参照。
  • (4)谷口吉郎、「雪あかり日記」、『谷口吉郎著作集』(全五巻)、淡交社、第一巻、六四頁。
  • (5)前掲(2)、『慶應義塾百年史』下巻、二六二頁。
  • (6)谷口吉郎、「彫刻と建築」、『新建築』一九五〇年一〇月号、三〇九頁。
  • (7)谷口吉郎、「イサム・ノグチとの出会い」、『イサム・ノグチ彫刻展』図録(会場・南画廊)、朝日新聞社、一九七三。
  • (8)前掲(2)、『慶應義塾百年史』下巻、二五三―二五五頁。
  • (9)前掲(7)、谷口吉郎、「イサム・ノグチとの出会い」。
  • (10)『慶應義塾百年史』上巻、一九六八、六一八―六二〇頁。
  • (11)鷲見洋一、「交際する身体―コミュニケーションを切り拓く」、『世紀をつらぬく福澤諭吉―没後一〇〇年記念展』図録、慶應義塾、二〇〇一、六八頁。
  • (12)前掲(10)、『慶應義塾百年史』上巻、六二〇頁。
  • (13)イサム・ノグチの生涯と作品については、下記の自伝、評伝を参照。イサム・ノグチ、『ある彫刻家の世界』、小倉忠夫[訳]、美術出版社、一九六九。ドーレ・アシュトン、『評伝イサム・ノグチ』、笹谷純雄[訳]、白水社、一九九七。ドウス昌代、『イサム・ノグチ―宿命の越境者』上下巻、講談社、二〇〇〇。
  • (14)イサム・ノグチ、『ある彫刻家の世界』、小倉忠夫[訳]、美術出版社、一九六九、一六頁。
  • (15)前掲(14)、イサム・ノグチ、『ある彫刻家の世界』、一八頁。
  • (16)前掲(14)、イサム・ノグチ、『ある彫刻家の世界』、二三頁。
  • (17)ボニー・リチラック、「ボーリンゲンの旅―レジャーの環境」、『イサム・ノグチ、ランドスケープへの旅―ボーリンゲン基金によるユーラシア遺跡の探訪』展リーフレット、広島市現代美術館[ほか]。
  • (18)前掲(14)、イサム・ノグチ、『ある彫刻家の世界』、三六頁。
  • (19)ドーレ・アシュトン、『評伝イサム・ノグチ』、笹谷純雄[訳]、白水社、一九九七、一五四―一五五頁。
  • (20)前掲(19)、ドーレ・アシュトン、『評伝イサム・ノグチ』、一五七頁。
  • (21)前掲(6)、谷口吉郎、「彫刻と建築」。
  • (22)前掲(14)、イサム・ノグチ、『ある彫刻家の世界』、三七頁。
  • (23)谷口吉郎、「慶應義塾・第二研究室」、『新建築』一九五二年二月号、五四―五五頁。
  • (24)木田拓也、「あかり―イサム・ノグチが作った光の彫刻」、 『あかり―イサム・ノグチが作った光の彫刻』展図録、東京国立近代美術館、二〇〇三、一〇頁。
  • (25 )剣持勇、「工芸指導におけるイサム・ノグチ」、『工芸ニュース』第一八巻第一〇号、一九頁。
  • (26)前掲(25)、剣持勇、「工芸指導におけるイサム・ノグチ」、二〇頁。
  • (27)前掲(25)、剣持勇、「工芸指導におけるイサム・ノグチ」、二〇頁。
  • (28)前掲(25)、剣持勇、「工芸指導におけるイサム・ノグチ」、二三頁。

〔やない やすひろ 慶應義塾大学アート・センター・キュレーター。近現代美術史・美術館学。一九九五年慶應義塾大学大学院文学研究科美学美術史学修士課程修了。箱根ガラスの森美術館学芸員を経て、一九九八年より現職。主要業績―「慶應義塾旧図書館ステンドグラスの図像成立と構想案に関する一試論」、『伝統と象徴―美術史のマトリックス』、沖積舎、二〇〇三。「演説姿の福澤諭吉肖像画に関する覚書」、『日本美術の空間と形式』、二玄社、二〇〇三。〕