Artworks in Mita Campus

若い人

イサム・ノグチは「ノグチ・ルーム」のデザインにおいて、部屋だけでなく庭園をも同時に構想し、はじめて空間全体のデザインを試みたが、庭園の構想には、自らが制作する彫刻3体も含まれていた。《若い人》はこのうちのひとつで、そのモデルは1950年に日本でノグチが開催した展覧会に出品されている。

《若い人》はイサム・ノグチが1944年から始めた、大理石、鉄などを板状にしたパーツを組み合わせて空間を構成する彫刻であるスラブ彫刻作品群の流れを組むもので、シュールレアリスティックな抽象表現を特徴とする。菊池一雄の《青年像》と共通の主題を選びながらも、抽象という手法を用い、三田山上で学ぶ未来ある学生の生き生きとした姿をリズミカルに構成された曲線によって余すところなく表現している。

この《無》も、「ノグチ・ルーム」の庭園のために制作されたイサム・ノグチによる彫刻作品である。この作品の原型は1950年の展覧会の時点ですでに完成していて、イサム・ノグチが庭園に必要であると考えていた「石燈籠」として構想されている。

《若い人》と同じくシュールレアリスティックな造形言語を用い、触手がとぐろを巻いた形状の《無》は、ノグチが考えていた周辺の環境と彫刻の調和という概念を最も反映している。この彫刻はノグチ・ルームの西側に配置されており、沈む夕日をその円弧の内に抱くことにより、ノグチが意図した通りの「石燈籠」となるからである。そして、中には何もなくとも、見る人によってさまざまな姿を見せる鏡に想を得たといわれる《無》は、単純な円ではなく少し両端がずれており、見る角度によってさまざまな表情を見せる。

現在の《無》と「ノグチ・ルーム」の位置関係は当時とは異なっているため、ノグチが構想した環境と彫刻の調和の鎖は断ち切られてしまっている。このことは、「作品と場の関係性」という芸術において本質的な問題を改めて喚起していると言えるだろう。

学生

ノグチが「ノグチ・ルーム」における環境との調和を求めて庭園に設置した彫刻のなかで、最も巨大なのがこの《学生》である。鉄製の肋材で組み上がられた本作は、高さ4mにも達する。「学生が折りとじの本をぱたぱたと開いているところをイメージした作品」と伝えられている。

《学生》はノグチによって『芸術新潮』誌上で火の見櫓と組み合わせて示されていて、さらに芝消防署の火の見櫓を当時萬來舎から目にすることができたということや、空襲を知らせる半鐘に言及した父の詩、そして類似する造形を示す《ヒロシマの鐘楼(ベル・タワー)》を考え合わせるならば、《学生》の造形にはノグチの平和と学生の未来への思いが詰まっていると見ることができる。

《若い人》や《無》と合わせ、ノグチは3者3様の彫刻作品をひとつの庭園に配置している。このことは、1950年代のはじめのイサム・ノグチの中には複雑さと可能性が秘められていたことを示していて、「ノグチ・ルーム」の庭園彫刻はこれ以降の彼の転換点を示している。

デモクラシー

この絵はもともと、谷口吉郎の「建築交響詩」の一環として1949年に建設された学生ホール内に設けられた学生食堂の東西壁面に描かれていた。1992年の学生ホール取り壊しの際、現在見られるように西校舎内の食堂に移設された。絵の上部と建築が一致していないのは、絵が旧学生ホールの壁面の形状を保っているからである。

旧学生ホールは谷口が幼稚舎設計以来一貫して用いてきた「開放性」というモチーフが全面にわたって採用されていて、採光、通風、開口部の広さにそれが現れている。そしてこの効果をいっそう引き立てたのが、猪熊によって描かれた本作品である。《デモクラシー》では多くの若い男女が動物に囲まれながら楽器を奏で、歌をうたい、題名の通り戦後の社会の民主主義による自由を謳歌しているようだ。それだけでなく、開放的な構図や明るい色彩を用いることで、谷口建築との親和性を高め、明るい室内をいっそう明るくしている。

青年像

1949年に竣工した三田キャンパス旧4号館の前に広がる庭園の中心部に、谷口吉郎はひとつの彫像を配置した。それは彼が前年秋の新制作派の展覧会で目にしてひとめぼれした、菊池によるこの《青年像》であった。彼は建築、庭園、彫刻の融和によって、三田に新たな新しい学園の雰囲気を醸し出したいと考えたのであった。三田キャンパスの再整備に伴って1967年に4号館が取り壊されると、《青年像》も移動され、現在はキャンパス西側の研究棟脇にひっそりと佇んでいる。

あごに右手をあて、左手を垂らし、うつむき気味で憂愁を帯びた表情をたたえるこの像のモデルは、東北の青年であった。彼は声楽家を志望していたが、従軍中に喉を潰し、夢を諦めざるを得なかったという。菊池は、「戦争の空白の中に自分を置き忘れてきたような暗い影を持った青年にひかれた」と語っている。

星への信号

三田キャンパスの西門へ至る道への入り口にある広場に《青年像》とともに設置されている本作は、《知識の花弁》を制作した飯田善國が、昭和58年度卒業生からの記念品として制作した、風の力で動くキネティック・アート作品である。
飯田は、西脇順三郎や瀧口修造との出会いと親交を生んだ三田キャンパスでの自己形成期間を自らにとって重要な時期であると位置づけており、その自分が作った作品を後輩が眺めることに対して喜びを語っている。天へと向けられ、刻々とその位置を変えるステンレスの棒は、「星への信号」という題名や、この作品が「無限と地上との媒介者としてそこに佇立している」という飯田自身のことばを思うとき、無限からの信号を人間に伝え、人間の希望を無限なるものへ伝えるためのアンテナであるとみなすことができるかもしれない。

知識の花弁

図書館新館のエントランスで風に吹かれてゆっくりと動く巨大なモニュメントは、塾員である飯田善國による彫刻作品である。槇文彦の設計で1982年に建設された図書館新館のために制作された。飯田は槇の建築を「透明な空間の万華鏡的構造体」ととらえ、そのエントランスにおかれる作品は「この建物の空間の基本的構造に合致するものでなければならない」と考えた。そして彼が考案したのが、「薄明の闇に花開く大輪のイメージ」を形にすることだった。

キネティック・アートを強力に推進した飯田には、これはうってつけの題材であった。鏡面磨きを施したステンレスという慣れ親しんだ素材が回転することによって、文字通り作品の姿は万華鏡のように絶えず変化する。さらに知識を未来に花開かせる図書館はその機能においても飯田の花弁のイメージによく照応しており、設置場所に極めて適合した作品であるといえる。

やがて、すべてが一つの円に

飯田善國による《知識の花弁》と同じく、図書館新館が竣工した1982年に設置された宇佐美圭司の作品。図書館新館の入り口ホール右手側に配されていて、自動入館システムが導入された現在では全体を見渡すことは難しいが、壁面を埋める横長の大きなキャンバスは、現在でも十分な迫力を保っている。

福澤諭吉胸像

三田キャンパスを訪れる人々が記念撮影をするときによくお供するのが、この福澤諭吉の胸像である。現在は図書館旧館の前に設置されていて、慶應義塾を象徴する組み合わせになっているが、もともとは福澤諭吉の120回目の誕生日を記念して、谷口吉郎の助言のもと場所選定と周辺設計が行われ、1954年に旧第1研究室棟の前庭に設置された作品である。

この作品は慶應義塾の中心ともいえる三田キャンパスにある唯一の福澤の肖像だが、生前の福澤を知るものが少なくなったために設置された。作者は慶應義塾普通部出身の彫刻家柴田佳石で、制作にあたっては写真を参照するとともに福澤の子女から助言を受けており、よく福澤の面影を伝えると評されている。
研究室棟の解体とともに撤去された本作は、創立125周年である1983年に福澤研究センターが設立されたのを機に、同センターが入る図書館旧館入り口脇に設置された。

平和来

塾監局前の庭園に立つこの像は、戦後日本彫刻の泰斗である朝倉文夫の作品である。筋肉質でありながらしなやかに造形された青年の肉体は、裸体表現を特に得意とした朝倉芸術の真骨頂を示している。

「平和来(へいわきたる)」というタイトルが示しているように、1932年度卒業生によって1957年に寄贈されたこの彫像は、学徒動員によって戦地に送られ、ついに帰ることのなかった塾員たちの霊を慰める趣旨で設置されている。台座に刻まれた、学徒動員がなされた当時の塾長であった小泉信三の「丘の上の平和なる日々に 征きて還らぬ人々を思ふ」という碑文には、戦地に送ってしまった学生たちと自らの息子の死を想う、彼らに対する心情がよく表れている。

菊池一雄による《青年像》と、図書館新館地下にある本郷新による《わだつみのこえ》、そして本作と、図らずも戦後日本を代表する具象彫刻家の青年像が三田に揃うことになった。しかも、いずれも昭和20年代に制作された3体の彫像が示す若い肉体は、若き戦没者に対する慰霊と、それを踏まえての新しい時代への希望を表現しているのである。

小山内薫胸像

慶應義塾の文学科の講師として教鞭を執った小山内は、「新劇」の父として知られている。演劇といえば歌舞伎のことを指していた時代に、彼は西洋から近代劇を輸入、確立させ、築地小劇場を興した小山内だが、そのきっかけを与えたのは慶應義塾の演劇研究会が主催して大講堂(現存せず)で催した講演会であった。つまり、日本の新劇はここ三田山上でまさに産声をあげたのである。

小山内が1928年に急逝した際、慶應義塾社中は残された夫人と子供たちのために教育資金の募集を行い、さらに1958年には没後30年を機に友人門下の主導のもと、朝倉文夫によって胸像が制作された。当初は歌舞伎座の片隅に置かれていたが、翌年には関係者の働きかけによって、築地小劇場旗揚げの発端となった講演会が開かれた大講堂に近い場所に設置されていた。大学院校舎の建設にともない、1984年に現在の場所に移設された。


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