慶應義塾大学アート・センター Keio University Art Center

【FromHome】-05 5月28日:「アナクロニズム的雑感−−−−「現実」とは何なのか」森山緑(2020/5/6)

Fromhome

慶應義塾大学アート・センターは、展覧会活動やアーカイヴの公開を行ってきました。キャンパスに隣接しながら門の外にあるという場所も含め、小さいながらも外に向かって開かれている学校の小窓的存在と言えます。
新型コロナウイルス感染拡大の影響下、展覧会やアーカイヴの公開を出来ない状況が続いていますが、スタッフはリモートで仕事を続け、アート・センターは活動しています。その中で、現状下における芸術や研究、自分たちの活動や生活について様々に考えを巡らせています。
そこで、所長・副所長をはじめスタッフからの日付入りのテキストを現在時点の記録として、ここにお届けいたします。

慶應義塾大学アートセンター

 

アナクロニズム的雑感−−−−「現実」とは何なのか

森山緑(所員/学芸員)

 美術史の授業ではいつも、プレゼンテーション・ツールを用いて美術作品を見せながら説明をする。しかし同時に「実物をぜひ見てほしい」「実際の展示空間を体験してほしい」と言っている。パソコンのディスプレイ上で見るデジタル画像や展覧会カタログ等の印刷物で見る画像と、実際の作品がどれほど異なるかを理解してもらいたいからだ。
 しかし、今はそれが叶わない。世界中の美術館、博物館がVR映像や動画解説等で「自宅でミュージアム」「エア展覧会」を続々と発信し始め、仮想空間での「鑑賞体験」が盛んに行われている。こうした事態に、作品を直接、自分の目でじかに「見る」ことは一体なにをもたらすのかと改めて考えさせられている。展覧会を訪れ作品を見る行為は、視覚のみから成立しているのではない。屋外彫刻作品などを除いて、触れることが可能な作品は少ないけれども、表面のテクスチュアを触るような感覚を持って見ることに加え、聴覚、嗅覚もあれば全身の身体感覚をもって体験する。
 いま、自身にとってそれが、やはり大切にしたいことであるのだと再確認している。展覧会会場への入り口、照明の強弱、床を歩く音、作品の前から横から遠くから近くから観察し、額や台座もじっくり見る。展示室内の作品配置やキャプションの位置や字の大小も気になり、展示企画者の意図を考えながら歩く。いやしかし、これらは今やVR映像でかなりの部分が体験できるではないか。しかも肉眼では見落としてしまう微細な部分や、本来肉眼では見えない程の高精細画像も存在するのであるから、いったい現実の、作品を見る行為とは何であるのか。
 ふと想起したのは、床が傾いているベルリンのユダヤ博物館である。建築はもっとも直接的な身体感覚への刺激を通した鑑賞体験がなされる場であるが、あの傾きと勾配を歩んだ先にある資料群の展示を見た経験は、VR映像では成立しないのではないか。身体の軸が不安定になり、クラクラする気持ち悪さを内蔵に抱えながら、やがて狭く暗い塔の底部から上を見上げた、あの体験は。ミュンヘン近郊にあるダッハウ強制収容所で感じた静かな恐怖もまた、同様である。その「場」に立ってみて初めて、自分が何を「見た」のかを知る、そうした感覚は何だったのだろうか。まったく見ることが不可能な状況より、VRでも画像でも見られる機会があるほうがはるかに良いが、現実の体験が身体全体を刺激することが重要なのだ。しかしそうした身体感覚さえも擬似体験が可能となりつつある今、「現実の」という言葉が何を意味するのかさえ定義し直さなければならないだろう。すでにこの新型コロナウイルスと相対している今が、その時であると言えるのかもしれない。
 もう一点、日々アーカイヴの資料と接している立場から「現実の」体験を考えてみたい。アーカイヴには資料=現実のモノが集積している。日本では20年ほど前から資料のデジタル化が叫ばれ、資料を使う側、管理する側双方にとっての利便性を高める取り組みがなされてきた。誰もが簡単にデジタルデータにアクセスし、検索して資料の内容が把握できる。実際に、資料の実物を貸し出さずとも画像のやり取りのみで資料を活用してもらうこともしばしばである。
 しかし実は普段から「調査に来られて、現物を確認してください」とお願いすることも少なくない。数点を図録に掲載するのみなどの場合を除き、展覧会に借用したいという依頼の場合などがそうだ。なぜかといえば、ピンポイントで、Aの資料が必要だと考えていても、いざアーカイヴに来てもらって資料をお出ししてみると、Aの周辺資料が目にとまったり、こちらからも「そういえばこんなのもありますが」などと対話をしながら、これはすごい、これはぜひ借用したい、などと盛り上がってしまうこともしばしばあるのだ。たとえて言うならば、欲しい本をネット書店でピンポイントで購入する行為と、書店に行き、目当ての本が置いてある棚の前に行ってから、あれやこれも面白そうだ、ああこんな本も出ていたんだ、あっちの棚にも行ってみようなどとつい散策してしまう行為との違いにも似ている。もっとも最近ではネット書店でも、購入した履歴にもとづいて関連分野のいわゆる「お勧め」商品が自動的に画面に現れるので、選択肢が増えるという点ではリアル書店との差も縮小しているのだが。
 内容を確認するだけならばデジタルデータでまったく問題ない。国際的な動向を見ても、デジタル化されたアーカイヴ資料が多くの機関で公開され、その利用が促進されている。しかし、と思う。ふたたび自身の経験の感想となってしまうが、海外のアーカイヴで100年前の画家が書いた手紙を手に取り、インクのシミや添えられた押し花のハラハラと落ちそうになる茎を押さえながら調査した経験はやはりかけがえのない時間だった。メールで事前にリクエストした以上のことをスタッフの人たちから教えてもらい、次から次へと関係機関や人物を紹介してもらった。つい数ヶ月前に海外調査に行った際にも同様のことを経験した。「現実の」資料と接することの益は大きい。しかし数十年もすればその「現実」はデジタル資料そのものになるはずだ。すでに手書きの書簡や紙媒体の印刷物もなくなりつつある。その時、人を介さないアーカイヴもまた「現実のアーカイヴ」となるのだろうか。
 アフター・コロナの世界では多くのことが変化するのは確実だ。人の行動、モノの管理、研究や教育の方法・・・。そこでの「現実」は何を意味するようになるのか、自らの身体感覚を意識しながら考えていきたい。

2020年5月6日


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